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新聞に載らない内緒話

王貞治辞任

1998年(平10)8月1日、福岡ドームで行われたダイエー(当時)対西武戦5回表、王監督は捕手の城島健司(現マリナーズ)を交代させた。この日のリードに精彩を欠いたからだ。これに城島はむくれ、ベンチに戻るなりレガーズなど防具を投げつけ、その拍子にベンチ出入り口にあった、パイプ製の「監督椅子」が吹っ飛んだ。
 「城島! なんだ、その態度は」。
 8月2日付の日刊スポーツにはこう書いてある。「何事が起きたのかと、通路に飛び出したカメラマンの見ている前で、城島に近づき、右手の甲で払いのけるように、顔面をぶった」。
 王貞治がプロのユニホームを着て、しかも職場でもある球場で人を殴ったのは後にも先にも、この1回だけである。
注釈がいる。
ただ「殴った」というのならば1968年(昭43)6月に、当時巨人のエースだった堀内恒夫(前巨人監督)を殴っている。遠征中の宿舎を抜け出し、外出した堀内への制裁であり、「1発目で、1メートル以上は吹っ飛んだ」との堀内の回想を待つまでもなく、それは低迷するチームを逆なでするような態度に「なぜ殴らなければならなかったか」を知らしめるためのものだった。付け加えるならば、王も当時は選手であり、堀内も同じ、つまり対等の関係であった。城島を殴打した、監督という管理職として、上下の立場からのそれではなかった。「後にも先にも、この1回だけ」と書いたのはそういう意味である。
王貞治の父・仕福は1922年(大11)、中国浙江省青田県から日本へやってきている。翌年の関東大震災で強制送還されたが、その翌年には再び来日し、東京で働いているときに当住登美と出会い結婚する。王貞治の母である。100歳を超え、今も健在と聞く。
その父が異国で生活するにあたって、子供たちに口すっぱく教え込んだのが「人に迷惑をかけるな。人のお役に立て」だった。「徳を用いて怨みに報いる」という中国的発想だと、後に王貞治は自著「回想」で書いているが、現実は戦前、戦中、戦後と異国で生き延びなければならなかった外国人が、その激動の時代を、波風を立てずに生活するには、この生き方しかなかったのではないか。ここは中国ではない、日本なのだ、と。仕福の言葉を、私はそう解釈している。
その考え方は王貞治の野球人生に大きな影響を与えた。少なくとも一選手として本塁打を量産しているときはそれでよかった。結果を出せば名声はついてきた。「人格者」という世間が貼り付けた評価については、それなりの息苦しさは感じたろうが、それもスター選手という「公人」にはつきものと理解していたのである。
だが、その王貞治が監督という立場になったとき、空気は一変した。巨人という「常勝」チームを引っ張ってゆく上で、「人に迷惑をかけるな」では奇麗事過ぎる。日本人を使いこなさなければ、チームは勝てない。父の母国「中国」と母の母国「日本」の間で、王貞治は揺れ動き、そして監督としての生活が始まった。
巨人監督時代の王貞治はいかにも歯がゆかった。1987年(昭62)にリーグ優勝をしてはいるが、おおむね監督としての実績は低調である。有力選手を次々と入団させ、目一杯の戦力を与えられれば、このくらいの成績は残せそうである。
その王貞治が城島を殴った。
この記事を読んだとき、何か憑き物が落ちたような気がした。たまたま遠征で千葉のホテルにいた監督を訪ねた。「本当に殴ったんですか?」と問いかけると、「いやいや、城島がたまたま走る抜けようとしたところに椅子があったんだ」。殴ったかどうかについては返事はなかった。ただ、何かが吹っ切れた。そう思っている。勝手な思い入れではあるが。
そもそも王貞治が巨人と決別し、福岡へ向かったのは、当時球界戦略家として図抜けた根本陸夫と、球団経営者としてこれまた評価の高かった坂井保之の存在が大きかったことは否定できない。南海球団を買収した中内功は福岡を、ダイエー本体のアジア進出、世界戦略の拠点として捉えており、そのための球団買収であり、その新球団の監督はアジアとの縁のある王貞治と、白羽の矢を立てたのは、経営者として当然の判断であったろう。
1988年(昭63)9月29日、巨人監督辞任会見で王貞治はこう言っている。「要求されるのが巨人では大きすぎるのでつらいこともあった」。一挙手一投足が注目される巨人に在籍していて出来る野球には限界がある。感情の発露すら許されない、拳すら突き上げられない野球とはそろそろ決別すべき季節が来ていたのである。
福岡で第2の野球人生を始めたのは中内功のアジア構想と、弱小チームを立て直す、そのためには周囲の雑音に邪魔されない、自分の理想としている野球環境がほしいという、王貞治の希望が合致した結果ではなかったか。それは単なる偶然なのか、必然であったのか分からないが、後にWBCで世界一になる王貞治の人生を考えたとき、やはりその舞台はちまちまとした日本国内ではなかったような気がする。
ダイエー、ソフトバンクでの生活は、当初こそ低迷を続け、福岡のファンをして「監督交代」の批判を浴びるものではあったが、その後チームは着実に成長してゆく。就任1年目、チーム打率2割5分9厘、本塁打94本、防御率4・16だったが、3年目のチーム本塁打は132本、5年目の1999年に140本。2001年には203本と、打力のチームと変貌してゆく。もっともチーム防御率は相変わらず4点台に低迷、ここに見えるのは「打って勝つ」という本塁打王・王貞治がもっとも望んだ野球である。巨人では実現できなかった夢はここで結んだ。そのチームが最近になって投手力が主体の、守りのチームになった。王貞治にとっては潮時であったのかもしれない。理想のチームが作れなくなった時、監督は身を引くのである。
9月23日、突然の辞任会見。
「本当に(福岡での)14年間、幸せでした。何で九州の人、福岡の人はこんなに温かいのだろうと、私生活を含めて本当に幸せな14年間でした」。
東京、巨人のことは記憶の彼方なのかもしれない。
古来、この国の外交の窓口、要として存在してきた九州という地と、王貞治のルーツは複雑曲線を描いて、ひとつの終止符を打ったような気がする。       (敬称略)

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